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歌垣山 ( 能勢町 )
山に行っていたころ、驚いたことがあった。 京都の西にある小塩山 ( 642m ) に向かっているとき、稜線上に御陵があった。 <ruby>淳和天皇陵<rt>じゅんなてんのうりょう</rt></ruby>だ ( 786~840 )。 迂回して進んだが、帰って調べてみると、散骨を望まれたことにより御陵がつくられたようだ。 御陵は<ruby>大原野西嶺上陵<rt>おおはらののにしのみねのえのみささぎ</rt></ruby>と呼ぶそうです。 もう一つは、歌垣山。 2006年1月、歌垣山 ( 能勢町 ) から妙見山までハイキングに出かけた事がある。 能勢電車の妙見口駅からバスに乗り、歌垣山登山口へ。 [](http://hokusetsu-archives.jp/dbs/page?id=T_00217380) 登山口標柱 登山口の説明板に「・・・歌垣山が有り、若き男女がこの山に登り集い、( 即興の歌を交わし ) 常に歌垣をなしたことにより、歌垣と名付けられた」ということです。( 和銅6年 ( 713 ) に上撰された、「摂津国風土記」逸文「釈日本記」に )とある。 町史に、「昔、男女若者がこの山の頂上に登って、歌をよみ交わし、酒をくみ交わし踊ったりして夜を明かしたという。こうした歌垣(かがい)をよくしたところから、歌垣山とよばれるようになった。」と書いている。( 能勢町史5巻 資料編 ) 山で文化・風俗に関することに出会ったことに驚いた。 [](http://hokusetsu-archives.jp/dbs/page?id=T_00217410) 歌垣山解説版 ( バス停付近 ) ピークが北と南にあり、南に三角点と展望台が、北は公園になっており、歌碑・石碑があった。 [](http://hokusetsu-archives.jp/dbs/page?id=T_00217390) 歌垣山公園 ( 北の山頂 ) [](http://hokusetsu-archives.jp/dbs/page?id=T_00217400) 山上の歌垣山碑 治暦四年 ( 1068 )、後三条天皇即位の大嘗祭において、主基頭であった大江匡房卿が主基田に指定されていた倉垣の里を訪ねたときに詠まれた歌が刻まれています。 [](http://hokusetsu-archives.jp/dbs/page?id=T_00217350) 記念碑そばの説明板 [](http://hokusetsu-archives.jp/dbs/page?id=T_00217360) 山頂 ( 南側 )・三角点 ( 553.5m ) 歌垣はいつ頃の事か分からない。 場所は、山だけでなく、<ruby>市<rt>いち</rt></ruby>が開かれる所でも、春や秋 ( 農作業の開始・収穫 )行われたようだ。 目的は、神に収穫の感謝か、集団の団結か、若者の結婚相手を探す事が中心か、定かでない。しかし、男女が自分の気持ちを歌で交互に交わす、何だか難しそうです。 聖武天皇天皇は朱雀門に出御して歌垣をご覧になった記述が、続日本紀 巻第11 天平6年 ( 762 ) 2月1日の条に書かれています。解説に「 歌垣 男女が集まり、相互に掛合歌をうたって求愛する習俗から発した行事。もと中国諸民族の間にあったものが、半島を経て古代日本に伝わり行われたもので、万葉・風土記などにも見られる。 」(出典:続日本紀 ( 上 ) 全現代語訳 講談社学術文庫 1030 ) この風習は中国長江 ( 揚子江 ) 南側地域の少数民族や・,ネパール・ブータン・インドシナ半島・フィリピン・インドネシア 等にもあるそうだ。 日本三大歌垣として、茨木県つくば市の「筑波山」・佐賀県白石町「杵島山」・能勢町の「歌垣山」が知られているそうです。 資料 関西ハイキング2011 山と渓谷社 小塩山28頁 新・分県登山ガイド「 26 大阪府の山 」山と渓谷社 歌垣山20頁 「 北摂の山 上 」東部編 ナカニシヤ出版 歌垣山167頁 「歌垣と神話をさかのぼる」━少数民族としての日本古代文学━ 工藤隆著 新典社
掲載日: 2025-05-01 (C135)